プロフィール概要

株式会社プランメンタル ライフジャンプ代表。
一度に1種類だけのレメディーを使う、伝統的なクラシカルホメオパシーを実施。
金沢美術工芸大学修士卒、凸版印刷株式会社にてディレクターとして7年勤務。販売コンテスト関西1位・NYアートディレクターズクラブ受賞。
退職しガラスの作家活動をする、芸術で受賞13回ほど東京銀座ギャラリーにて展示会実施。
化粧品会社に転職12年間勤務 商品企画と販売促進担当数々の賞を受賞。

2006年からホメオパシーの勉強を始め、某ホメオパシー学校中退、世界的ホメオパスヴィソルカス教授のInternational Academy of Classical Homeopathy卒業。元脳外科医ドクターホメオパスロバートハシンガーのFCH JAPAN 卒業。
2016年ホメオパスの仕事で独立起業、2019年から人間関係のコミュ二ティー事業を開始。
プロモーション業務化粧品会社のコンサルタント、2022年エコロジー商品の販売促進などにもたずさわる。

2023年法人化株式会社プランメンタル ライフジャンプを設立、現在ホメオパシーとコミュニティー運営2つの事業を経営。

国内・海外〜世界中にクライアントをもち、医師などのクライアントも持つ。3800以上のケースを担当し、他のホメオパスで治せなかった症例も多数解決。数多くのクライアントを身体と心の改善だけではなく、自己実現へと導いてきた。

ライフジャンプホメオパシーとは?

ライフジャンプホメオパシーとは私がつくった造語で、「人生を変えるレベルのホメオパシー」を指します。

はじめまして、クラシカルホメオパス世良純子です、私は1968年生まれの現在55歳です。
2006年にホメオパシーを学びはじめてから17年以上、世界中にいる数多くのクライアントの人生を変えるお手伝いをしています。

支援の範囲は幅広く、花粉症や甲状腺、婦人科系や原因不明の体調不良、恐怖症、性的虐待やトラウマ、パニック、うつ、不登校・人間関係・恋愛の心の傷、といった身体や心のケアだけではありません。

永年の夢を叶え、憧れの職業に就いたり、インフルエンサーになるなど自己実現のサポートも行うのが、わたしが提供する人生変えるライフジャンプホメオパシーの特徴です。

独立系ホメオパス

ホメオパシーは、技術自体はすばらしいものの、それで生活してゆくのは難しい仕事です。

簡単なセルフケアを学んだ方、4年制の学校を卒業した方、卒業後も別の学校で学び続ける方、海外に留学してホメオパシーを学ぶ方までいますが、その後生活してゆける収益を得ている方は少ないです。

多くの方がホメオパシーを副業でしているか、セッションより講座販売で生活しているか、奥様として養ってもらう片手間で仕事をしている方が多いです。
私が卒業した学校も、200人ほど卒業生がいましたが、プロとして仕事しているのは私が知る限り4〜5人くらいでしょうか?

しかし、私にとってホメオパシーは、趣味でも副業でもなければ、片手間にする仕事でもありません。
生計を立てる事業にすると覚悟を決め、企業を辞めるというリスクをとって2016年に個人事業主として独立し、その事業が拡大し、2023年には法人化も果たしました。


この仕事で生活しているのですから、クライアントに結果を出さなければ、継続することは不可能です、私にとってホメオパシーという仕事は真剣勝負なのです。

ここまで人生かけて仕事をしているのですから、当然私自身が病やトラウマでもがき苦しんできた強い原体験をもっています。
長くなりますが、私の半生を知っていただき、世良純子という人間が信頼できそうか確認して、もし納得がいけばメルマガ等でお気軽にご相談ください。

医療の本質を聞いて育った子供時代

私の父は、新聞に掲載され、後に勲章をいただくような名医で、まだ社会で認められていなかった「過労死」を提言したりもしていました。

私は、医療への先見の明があった父から、人前では言わない病気や医療の本音を日常的に聞いていました。

失恋が原因で心が壊れた女子高生の話、薬で風邪や咳は治らないと話、患者に投薬や手術を勧める医師が、家族や自分には特定の手術や薬は使わないのも実際に見てきました。
この経験は、私が西洋医学では改善できない「病気はどこからはじまるの?」というホメオパシーの本質に触れるルーツとなりました。

暴力と性的虐待の日々、5歳で抱えたトラウマ

しかし、私の家庭は決して円満ではありませんでした。

姑からいじめを受けていた母はとても不安定で、日常的に私はモラハラや虐待をし続けました。

理不尽な理由で罵倒されては、「お前なんか生まれてこなければよかった」「お前みたいな子供が継母にコ●されるんだ」と言われ、ぶち殴られながら育ちました。

5〜6歳頃でしょうか?水泳教室で溺れそうになり、講師が助けてくれなかったので、泣きながら帰ろうとする私を、母は「他の子は泳げているだから戻れ」と般若のような顔で怒り狂い、泣き叫ぶ私を痙攣して口がきけなくなるまで殴り倒し、玄関に裸にして放り出し、家に帰られていたり。

小学校にあがるまえに、一人で小説を書いていたのですが、「自分で書いた」という私を、母は「嘘に決まっている」とののしり、9歳年上の姉も「純がこんなもの書けるはずがない、写したんだろう?」とののしり。
「どうして本当に私が書いたのに信じてくれないの?」と泣くわたしを叩いて殴り、姉からも兄からも日常的に暴力をふるわれてきました。

不思議なことに、2人とも自分がしたことはすっかり忘れていますが、特に姉はなにか気に入らないことがあるたびに家族全員を集めては、小さな私をのけ者にし、「あいつさえ家にいなければいい」と罵倒し、私の手作りの誕生日プレゼントはゴミ箱に捨てていました。

それなのに、母も姉も外面だけはよくジキルとハイドのようでしたので、私が大人に泣きながら家で暴力をふるわれていることを訴えても、「あんないい人がそんなことするわけがない」と誰も信じてはくれませんでした。

母からも兄や姉からもいじめ抜かれ、罵倒を受ける毎日、孤独な私は絵を描いたり、ストーリーを考えることが唯一の自分の慰めでした。

ところが、自信がなく、不安が強い私をさらに地の底に突き落とす出来事が5歳の時にありました。
近所に住むおじさんから性的虐待を受けたのです。

最後までではありませんでしたが、近所の子も性的虐待を受けていたので、当時その行為の意味がわからなかった私は、無邪気に母に伝えようとしたところ、「まさか、あなたがされたんじゃないでしょうね!!」と怒鳴りつけられ、思わず「わたしはされていない」と嘘をつきました。

その時「私は汚く、なにかとんでもないことをしてしまったんだ・・・」と、男性に近づいた自分に強い罪悪感をもったのです。

その後、6歳で私は「腸ヘルニア」の手術を受けました。トラウマが身体に病気を作った1回目の経験でした。
また、この経験は、私が虐待を受けている人を立ち直らせたいと強く願うルーツともなりました。

アトピーを発症、ついたあだなは「おばあさん」


性的虐待を母に怒られてから、「断じて恋愛しなければきっと母に愛されるだろう」と思うようになった私は、やがて小学生でアトピーと卵アレルギーを発症しました。

「おばけ」と同級生にいわれ、アトピーのひどいかゆみでいつも手や足をガリガリ掻いてはリンデロンという強いステロイド薬を塗りたくって、目の下がシワシワになり「おばあさん」と呼ばれ、やがてどんどんアトピーは悪化してゆきました。

セクシャリティーを抑圧してきた青春時代


アトピーは外見を気にする高校生から大学生の頃に最もひどくなりました。
ボロボロと鱗のように顔の皮膚が剥がれ落ち、首は真っ黒で自分の容姿にとてもコンプレックスをもっていました。


そのため、おしゃれをすることも、芸能人に憧れることも、恋愛も、男の子と会話することは諦めていたのです。

なので、男子からも女子からも「あの絶対男と話さない変なヤツ」「あんたダサいよね」と馬鹿にされ私の10代は終わりました。

ホメオパスとなった今は、「自分は恋愛してはいけない」という無意識下のトラウマが、アトピーを悪化させ、恋愛を避ける理由になっていたとわかるのです。
恋愛できない」という相談をよく頂きますが、意外なことがルーツになっていることも多いのです。

高校教師からのドラマのような進学妨害

ウロコのように皮がめくれるボロボロの顔と、母や姉兄からの罵倒、このひどい現実から逃れるために私は絵を描いて自分を慰め、漫画家になる夢をひそかに抱いていました。

高校では成績優秀でしたので、通いたい漫画教室が近くにある関東の美大入学を目指し、美術部に入部しました。

その美術部は、有名美大への入学生を多数輩出していて、受賞経験もある美術のA先生や先輩に指導され、着々と絵がうまくなっていたところに状況が一変します。

先生が他校に引き抜かれ、絵が下手な新人のO先生が美術部の担当に変わったのです。

画力を必要としない大学卒で、高校時代にはほぼ絵を描いた経験がないO先生は、高校の先輩達より画力がなく、O先生は次第に絵がうまい先輩を目の敵にしていじめるようになり私は嫌われまいとビクビクしていました。

受験の日が近づいてから、指定校推薦をもらうには、受賞経歴があるとよいことがわかり、絵画を出品することにしました。

絵が上手かった私は、一番の受賞候補でしたが、先生に出品をお願いしたその日、なぜか私は心臓ががドキドキしたのです。

ところが、次の日の部室にいくと「私の絵だけが、出品せずに置いてあった」 のです。
当時気の弱かった私はガクガク震え、「そんな・・・嘘でしょ?先生に嫌われている・・・」その事実が認められずに、先生が怖くてたまらない私は、出品してくれなかった理由すら聞けず、ただやられっ放しでした。


無事出品できた人たちは受賞し、出品できていない私だけが当然受賞のチャンスを逃しました。

受験が近くなり、もう絵を描くチャンスはわずかしかのこっていませんでしたが、命をかけてもう1枚受験勉強をしながら展覧会に出品しました。

内申申請に間に合うように、美術の先生は入選発表の1日前に結果を教えてくれると私に約束してくれました。
以前の美術部の先生が審査員だから、結果が早くわかるといっていたのです。

夜眠れないほど不安になって、ずっと先生からの結果の電話を待っていました、コールを聞いて受話器にとびついた私に、O先生は「とっても一生懸命入選させてあげてくださいと私が頭を下げて頼んだけど落ちたの」と言われました。

次の日学校にゆくと、担任の先生も「残念だったな」といってもう内申書は発送済だといわれました。

ところが次の日、学食でお昼ご飯をたべている私のところへ友達が走ってきて「おめでとう〜」というではないですか?

私の名前は新聞に「努力賞」を受賞したと掲載されていたのです、わたしは足から崩れ落ちそうになりました。
O先生は 、私が美大に合格しないように2回も私に嘘をついて大学を落ちるように仕向けたのです。


「先生が私を憎んでいる・・・?」その理由がわからず、イジメに負けてオロオロし、勉強もてにつかず、絵も描けなくなり、結局3年間頑張って努力し続けた憧れの大学も落ちました。

それでもその後短期間で、進学するつもりがなかった大学の勉強を必死でやって、最終的に金沢美術工芸大学に入学できました。

今の時代なら、SNS投稿で告発したら騒ぎになるくらいO先生は暴挙でしたが、先生の権力が今の時代よりはるかに強かった当時は、理不尽を学校の先生に訴えても「誰も味方になってくれる人はいませんでした。

これにはさらにひどい後日談がありまして・・・。

大学に合格してから私はA先生を探し出し、電話をかけこの受験までの絵画出品の経緯を話したところ「そんな絵画展知らないし、審査員もしていないし、審査の結果も1日前になんて教えていないし、そもそも審査の結果を1日前に教えることなど不可能だ」といわれさらに呆気にとられます。

なんとO先生は私の担任も親も学校も私も騙して、最初から芝居をうっていたというのです。
わたしは受話器をもったまま茫然自失しました。

いまから冷静に考えると、絵描経験の乏しい24歳くらいのO先生は、才能ある美術部の生徒達に嫉妬していたとおもうのですが、そんな悪意に何の抵抗もできない弱い自分でした。
また、これらの事実が発覚しても、親も先生も一切誰も助けてはくれませんでした。

しかし、この経験があるからこそ、学校で理不尽なイジメを受けている子供を助けたいと今は思うのです。

トラウマがひどすぎて絵がかけない?夢すら奪われる

美大に進学し家から離れ一人暮らしの生活になりましたが、運良く有名漫画家のアシスタントになれました。

ところが、当時少女漫画といえば、恋愛を主体とした「ラブコメ」でしたが、いざ漫画を描こうとしたら、「男の人の絵が全く描けない」という驚愕の事実に気付いたのです。

自分に恋愛や性的な行為を禁止していた私には、恋愛の物語はおろか、男の人の絵すら「おもいつかない」「描けない」「手が動かない」状態だったのです。

私の中に巣くったトラウマは、心の支えであったたったひとつの夢すら奪っていきました。

友人がカルト宗教に入団

美大は性に対してとても開放的な場所で、男性恐怖症の私にとってストレスフルな場所でした。

同棲、セッ/クスの話を露悪的にするのは当たり前、男は宴会で素っ裸になり露出させていました(現在はマナーも厳しくなりこんなことはできません笑)。

私は入学してすぐに盲腸で手術になりました。思えば、ストレスから病気になる3度目です。

しかも盲腸は食中毒と誤診され、「助けて!」と何度も訴えるも無視され、腹膜炎の痛みで歩けなくなるまで放置されました。
結局、大学1年の試験前日に救急車で運ばれ緊急手術を受け、お腹に醜い傷が残ってしまいました。

退院後、男性が苦手な私は同じ悩みを抱える女の子と仲良くなりました。彼女の男性恐怖症のルーツは、父親からの暴力でした。

あるときそんな彼女から、「女性を性的な対象として見ない、清らかな人たちがいるから、あなたも仲間にならない?」と誘われたのです。

ところが、そこは当時社会問題にもなっていた某カルト宗教だったのです。

私は彼女をカルトから脱出させようと親御さんや牧師にかけあって必死に行動しましたが、何度トライするも打ちのめされ、彼女との友情も終わりました。

その過程で、カルト宗教のターゲットが、私たちのように人間関係に不器用だったり、恋人づくりや性に否定的な感情を持つ人であることを知りました。
そして、男性が極度なまでに苦手な私は「清らかなのではなく、心の病を持っているのだ」とやっと自覚したのです、見たくないものはなかなか自覚ができないものです。

スピリチュアルに癒しを求めた30代

「自分には性的虐待によるトラウマがあるから癒やさないと!」やっと自分の問題を自覚した私は、20代〜34歳くらいまで精神世界にどっぷりとハマります。

自己啓発、スエットロッジ、クラニオセラピー、ロルフィング、ドルフィンスイム、占い、オーラソーマ、マヤ暦、フラワーエッセンス、感情を出すワーク、霊能者、霊視まで、ありとあらゆるヒーリングを体験しました。

多くのお金をかけ、自分はすっかり癒されたと信じこんでいました。

当時の私は「堂々めぐりしているだけの癒やしマニア」何回も自分の傷を掘り返しているのに、根本的な変化は起きていませんでした。
私がカウンセリングやスピリチュアルに若干否定的なのは、それらの限界と欠点を10年以上かけて自分自身がたんまりと遠回りを経験してきたからなのです(もちろんスピリチュアルが有用な場合もありますが)。

癒やしの転機は「現実的な行動」だった

大学は修士を卒業したので6年でした。
4年目で卒業していれば就職売り手市場だったのですが、修士の卒業と同時にバブルが弾け就職戦線は大混乱となりました。

大手企業が「今年は採用なし」になったり、「合格後採用取り消し」になったりで、もともと1企業2人くらいしかない採用先の枠なくなりました。

そんな大切な就職活動時期に、緑内障で目が見えなくなる疑いがあるとわかりました(後に解決)。

「こんなときになぜ・・・」と嘆き悲しみながらも、地方でたった一人就職試験のための制作を頑張り、泣きながら日本中をかけまわって就職活動する私に母は「院に進学したせいだ」「お前は運が悪い」とまた罵倒、病気で苦しむ私の味方にすらなってくれませんでした。

当時の私には夢があったのです。

アトピーや病気をもっていたので、食品添加物の入った加工食品や、肌にきつい成分の入った化粧品で誰よりも苦しんできました。
なので、「本当に健康に良い商品をつくって世の中に広めたい」という大きな夢がありました、そう、昔から社会に貢献したいと願っていたのです。

ところが、当時は無添加化粧品はまだ市場にほとんどなく、やっとのことで合格した大手化粧品会社で企画をしたいと申し出ましたが「そのアトピー肌だと仕事が大変」と言われ、合格するも入社を断念しました。

最終的に、あらゆる業界の仕事をしてみたくて凸版印刷株式会社の企画(実質広告代理店のような仕事)への就職を希望し、困難な競争に勝ち抜き合格しました。

やりがいのある仕事に専念し、男も女もなく評価を受け、人としてお互いが認め合う中で、自然と仲間ができ「男の人って怖いものではない」と学んでいきました。

やがて彼氏もでき、自分が女性であるということを自然に受け入れられるようになっていきました。

また、仕事でもいくつも難しい案件のプレゼンを勝ち抜き、海外で受賞もし、すこしづつ自分に自信をもつようになりました。

自分を決定的に癒やして変化させてくれたのは、スピリチュアルを追求し続けることではなく、現実的な行動だったのです、これは今もホメオパシーをする上で、指針となっています。
私のホメオパシーを受けている方達が、自己実現に成功する人が多いのは、
私が現実的な行動のアドバイスができるからだとおもっています。

少女を性的虐待した男性を許せと強要される

ところが自分を癒すために参加した自己啓発セミナーで、自分を見失います。

参加者のひとりが、自分の罪を告白するワークで「幼い子をレイプしました」と言い、ファシリテーターは「どんな罪を犯しても誰もその人の尊厳は傷つきません!」と高らかに宣言していました。

私はわなわな震え、ワークがすすめられなくなりました。


あまりに辛くなった私は、ファシリテーターの奥さんに助けをもとめましたが、「あなた次第」といわれ、「私は、これを頑張れば「性的虐待の傷を癒せるかも?」と、その後も泣きながら頑張ってワークを続けました。

最後に、性的虐待をした男性はストリッパーの役になって裸で踊り狂い、ファシリテーターは私に対し「彼を応援し、許しなさい」と命令しました。

私は彼をサポートしながらふるえ、泣いていました。

ストリップをした男性は、「やっと自分の性的なものが解放された〜」といって嬉しそうに帰ってゆきました。

私は「そんな人にも罪悪感があり、自分を癒す必要があった」ことを頭で理解してはいましたが、感情で受け止めることはできず、その後もやもやし、彼ともうまくいかなくなり、最終的に別れました。

今振り返ると、性的に抑圧された男性が少女に性的虐待をするのは理屈にあってはいますが、セミナーのファシリテーターとしてはあまりにお粗末だと感じました。
ファシリテーターが男性だったのもあるかもですが、心の問題を扱う経験不足のヒーラーやスピリチュアルの人が心を扱ってかえって悪化する例は意外にたくさんあります。

昨今はわずかに勉強してすぐ「〇〇実現専門家」と売り出すことが大事だといわれています。世間は私を時代遅れというかもしれませんが、自身は、10年以上勉強を重ねてやっとホメオパスとして独立しました「素人の癒やし専門家」は本当に危険だと思ったからです。
もうホメオパシーを勉強して17年以上も経ちましたが、いまだ勉強は続けています

大企業の立場を捨てガラス作家活動に挑戦

凸版印刷の仕事は一部上場企業だけにそこそこお給料も良く、仕事もやりがいがありました。

しかし、あくまでもディレクター職(デザイナーに指示を出す仕事)でしたし、女性の課長がいるわけでもなく、将来に不安をもっていました。

素敵なパンフレットを制作しても自分がデザインしたわけではない、それに不満をもち仕事はうまくいっていましたが、7年目で退社しました。

その後は大学の専門分野と別部門のガラスの作家活動を一からはじめました。

やがて作品が入選したり、作品が売れたりしたのですが、自分のやりたいことは芸術ではないと結論が出て、化粧品会社への就職に再挑戦することにしました。

私はずっとホメオパシーをしていたわけではなく、通常企業でのキャリアがしっかりありました、仕事はうまくいっていたので、「なぜ辞めるの?」と沢山の人に言われましたが、夢に挑戦したかったのです。
そのため、私もみなさんの挑戦を応援、サポートしたいと思っています、これからの時代こそ、たった一度の人生でやりたいことに挑戦してほしいと願っています。

人間関係最悪の化粧品会社で頑張る

身体にいい商品を作っている会社で働きたく、縁あって活性酸素に働きかける無添加ナチュラル系の化粧品会社に就職しました。

商品はすばらしく、使命感をもって商品開発や販売促進を担当していましたが、オーナー会社で会長の意見が強く、社員は女性ばかりで人間関係は最悪。

社内はワンマン、イジメ、嘘、パワハラ、モラハラ地獄という(現在問題がおきてクリーンな会社になったようです)なかなかにハードな環境でした。

16人の部署で34人くらい退社したでしょうか?入社1ヶ月で退社する人も、7日で退社する人も、3日で退社する人も、1日で退社する人もいて、上司も何人も変わりましたが、12年間我慢に我慢を重ねて頑張りました。

会長にかけあって展示館を企画して社長賞をいただいたり、商品企画を自ら会長にもちこんでプレゼンテーションしたりもしました。

会社の仕事は我慢と苦労の連続でしたが、逆にどんな人とでもうまくやる要領も憶えたので、今ではいい経験です。

ちなみに、ホメオパシーを受けたい人は自然環境とか人助けといった世の中を良くする仕事をしたいという意向の方が多いです。
ただし、その手の会社はオーナー企業なことも多く、会社がうたっていることとは違う現状が社内にある場合もしばしばです、どうか周りに流されず、期待しすぎず、目的をしっかりもって仕事
できることを願っています

それでも消えなかった恋愛苦手病

この頃には男性恐怖症はありませんでしたが、スピリチュアルを学んできた知識から、自分が婦人科系の病気を患う可能性があることに薄々気づいていました。

しかし、男性医師に向かって、股を開く婦人科の検診台に上がる勇気が持てず、永年見ないふりをして検診を避けてきました。

ところが、はじめて受けた検診で、すでに要手術のサイズになった巨大な子宮筋腫がみつかったのです。
病院では「とにかくお腹を開いて、その場の判断で子宮をとりましょう」とあっさりと言われました。

昔からお腹が大きかったので、もしかしたら子宮筋腫はかなり昔からあったのかもしれませんが、この検査の半年くらい前でしょうか?ひどい失恋をしたのできっと一気に悪化したのでしょう。

ところが当時は、ヒーリングワークをあれだけ頑張ってきたのに病気になったので、罰が下ったような挫折感を味わいました。

何件か病院を周り、経過観察の診断をもらい、なんとか子宮をとることなく治す方法はないかとありとあらゆる治療方法を探します。

漢方、中国整体、ヒーリング、気功、食事療法、そしてもちろん西洋医学の保存療法と、あらゆることを試行錯誤しましたが、何をやっても治りません、そこで最後に辿り着いたのがホメオパシーでした。

ホメオパシーで大失敗、結局は手術

きっと、読んでくださるあなたは、私がこのときホメオパシーを選択したことで病気が治り、ホメオパスになったことを期待されるかもしれません。

でも、現実のストーリーはそんなに美しくは進みません、私は、最終的にホメオパシーで救急搬送されたのです。


2年間本格的なホメオパシーを受けました。

最初に提案されたレメディーは、私にとても効いた気がしましたが、その後、ホメオパスから指示されるままにレメディーを変え、あれも、これもと何種類もレメディーを飲み続けているうちにどんどん悪化しました。

筋腫は日に日に巨大化し、貧血も悪化しヘモグロビン値が5(通常11~15)まで下がり、階段を上るだけでもしんどくてぜいぜいいう状態に悪化し、痛みで眠れなかったり歩けなくなったりもしました。

子宮筋腫は15センチにもなっていて、巨大化しすぎれば手術困難になり子宮ごととらなければいけなくなる瀬戸際でした。

ホメオパスには何度も相談し「治らないのなら、手術ができるうちにホメオパシーをやめたい」といいましたが、担当ホメオパスは「治る かもしれない から続けましょう」と言い続け、その言葉を信じて私は高額なお金を払い続けました。

ある日、指示通りレメディーをとると、グルグルと急に天井が回転するめまいになり、歩けなくなり、ホメオパスに連絡しても、学校に助けをもとめても解決できず、救急搬送となりました。

しかも悪化した後、何度連絡するもホメオパスとは1ヵ月以上も音信不通になりました。

最終的に子宮筋腫は開腹手術で核摘出手術となりました(子宮温存)、私にとって、4度目の手術です。

もちろんどんなすばらしい医師の手術でも失敗はありえますし、ホメオパシーでも治る確約ができないのは仕方がないでしょう。

ただし、当時私に行われていたホメオパシーは悪化してもしょうがないレメディーの与え方でした、レメディーの連続爆弾投与による悪化。

残念なことに、日本では危険なレメディーの使い方が野放しになっている事例が結構あるのです。

この経験をもとに、現在私はレメディーをとりすぎて悪化した全国〜海外の方のご相談に乗っています、みなさんくれぐれも慎重レメディーをとってください、間違えると大変危険です。

ホメオパシーの学校に入学

なんとか子宮を残し、筋腫だけを取り除く手術にに成功したとき、私はすでに38歳になっていました。

しかも、子宮筋腫の手術は開腹手術だったので術後、体力がとことん落ちました。

体重は8キロ痩せ、筋力もなくなり、どこかへ出かければ即日夜には嘔吐する。

病院の薬を飲んでも貧血も治らず、身体は氷のように冷たく、腰から下は感覚がないほど冷え切っていました、そんな状態でも私は会社の激務がありました。

普通ならここで「ホメオパシー最悪、デタラメ」と書いているところでしょう。

しかし、それでも私をこんな目に合わせたホメオパシーが偽物、エセ科学とはどうしても私には思えなかったのです。

私はこんな仮説をもっていました「ホメオパシー自体は本物なんだけど、たまたまホメオパシーのコントロールを間違ったのではないか?」私はそれを確かめたくなったのです。

私はどうしても本当のことが知りたくなり、自分の治療に失敗したホメオパスがいる学校にわざわざ入学しました。

当時その学校では、
・「新人のホメオパスが対応してはいけないケース」
・「ホメオパシーでは治らないケース」
・「病院をすすめたほうがいいケース」

というルールがなく、ケースバイケースでなんでも受けることを検討してよいと教えていました。(今はガイドラインを整備している学校もあるようですが、この学校が現在ルールを決めているかどうかは不明)

知り合いに医療従事者の多い私には、病気に携わるにもかかわらず、このアバウトさに大きな違和感を感じました。

私は、何のガイドラインもなく、どんな病気も奇跡のように治せると本気で信じて生徒に教えていたことが、私の病気への誤った対応、しいては結果につながったのではないかと疑うようになったのです。

日本では「病院に行くな」「薬は一切とるな」と言い切るホメオパスが多いようで、とても危険です。

この経験を経ているので、私は、なんでも奇跡のように治せますとは申しませんし、ホメオパシーとはマッチしなかったり、あまり改善が期待できないケースももちろんあるのでできる限りご説明しています。

ついにたどり着いた奇跡の出会い「本物のホメオパシー」

私がホメオパシーを学んでいた当時は、ホメオパシーは流行していて、イギリス、インドなどいろんな学校がありました。

当時はホメオパシーのセミナーがあれば、どこへでも出かけてゆき、あらゆるホメオパシーを学びました。

試行錯誤する中、やっと私は自分が納得できるホメオパシーに出会いました。
世界3大ホメオパスといわれるヴィソルカス教授のIACH〜International Academy of Classical Homeopathyというホメオパシー学校の日本です(現在日本校はありません、本校ギリシア)。

その学校の紹介文にはこのようなことが書いてありました。

「ホメオパシーは最初のレメディーを見つけてお渡しするのは実は簡単なのです。
それよりも、レメディーを出した後反応をチェックしながら、次はどのようにレメディーを出して、または出さないで、いかにその方を治癒までもってゆくかというコントロールをする、それが難しいのです。
逆に、それができないホメオパスには、最初のレメディーをお出しする資格がないといえるでしょう」



これだ!!!!と雷に打たれた気がしました私が永年求めていた真実がそこにありました。


そのとき、私は企業で働きながらすでに日本の某ホメオパシーの学校に通っていましたが、IACHのその強烈なメッセージに惹かれ、IACHにも入学することを決め、学校を2校かけもちすることにしました。

ホメオパシーの学校の授業料は莫大なので、当然遊ぶ時間はなし、遊ぶお金もなしです。

しかし、そんなことはどうでもいいと思えるくらいにIACHの授業は興奮することの連続で、日本のホメオパシー学校とは全く違い目から鱗がおちることの連続でした。

多くのホメオパスは、好転反応やレメディーを飲んだあとのアクションは予測ができないと教えていますが、IACHでは、良いホメオパスはこれから起こる反応が一定予測できると教わります(あくまでも一定)。

すでに日本の学校で習ったレメディーについても、全く違う解釈がなされていました。

私がずっと疑問をもっていた、
・「新人のホメオパスが対応してはいけないケース」
・「ホメオパシーでは治らないケース」
・「病院をすすめたほうがいいケース」
にもはっきりとガイドラインがありました。

やがて私は、日本のホメオパシー学校を中途退学することにしました、何年勉強してもここに治すノウハウはないと結論が出たからです。

何年ホメオパシーを学んでも生活できない方が業界に多い背景には、この「正しい方法を習っている人が少ない →したがって実践ができない」という事実が関係しているのです。
ところが不幸なことに、それを習っている本人も、教えている本人も気づいていないのです、誰かが悪いと言いたいわけでは有りません、これは構造的な問題なのだと私は感じています。

ドラマチックなほどの劇的な治癒

以前のホメオパシーの失敗で、すでに体内が混乱しきっていた私は、精神的にも感情的にも身体的にもボロボロな状態で、ぜいぜいいいながら仕事を続けていました。

そこで私は、IACHの海外ホメオパスのホメオパシーセッションを受けたところ、ここでもセッションのやり方に衝撃をうけます。

自分の悲しみ、苦しみを一生懸命に伝えるわたしをいきなりバッサリと切ってきます。

「いろいろきいたけどつまり君の問題はなにで何を治してほしいわけ?」

察してほしい、ではなく何を解決してほしいのか主訴をはっきりいえといわれました、全く優しくなんてありません。

「もう君の身体はボロボロ、感情もボロボロ、精神だけでもっている、こんな弱いどうしようもない状態にしたのは誰だ?君だ!!!」
「これは僕が治すんじゃない、君と僕との共同作業なんだ」

といわれ、ガーンと頭をたたかれた気持ちでした。

自分の生活態度が、自分の考え方が、自分の生き方がこんな病気をつくった、ホメオパシーで治すケアの主体は、あくまでも「自分」だと自分が被害者意識的になっていたことに、ようやく気づかせられたのです。

そこで、提案されたレメディーをとった後、劇的な変化がありました。 

それは、今までに経験したことがないほどの大きな大きな変化でした。

自己啓発だのスピリチュアルだの、カウンセリングだのを受けてきて何十万円や、他のホメオパシー学校にかけてきた数百万円と15年間は一体何だったのか?と思われるほどの「38年間生きてきた期間を一気に縮めたような癒やしの体験」でした。

5歳からずっとあった男性に対する色眼鏡が「突然」「ごっそりと」軽減しました。

ネガティブな感情がなくなることから、記憶力があがることから、身体の症状が治ることから、冷え症が治ることから、勝手におきるのです、それは、潜在意識に深くヒットするという本物のホメオパシーの体験でした。

「これから男が寄ってくるから」とホメオパスにいわれましたが、「あるわけないじゃん・・!」と思っていました。

しかし、セッション会場を出た瞬間、カッコいい外人にナンパされました「すごく素敵だから声をかけたんだけどお茶しない?」と。

ヒーリングやホメオパシーにありがちな欠点ですが「私可哀想、誰か奇跡で治して頂戴」というスタンスでは治癒は得られない。
この治癒にとって最大かつ、最重要なことにやっと私は気づいたのです。
一番大切なのは「病気をひきおこしたのは自分だと認め、痛みを伴ってでも自分と向き合い、自分を変える覚悟をするという、他責思考を手放すこと」が重要だったのです。

レイヤーを乗り越えどんどん治癒が進む

ホメオパシーで貧血も、体力低下も治りましたが、首だけはアトピーの後遺症でずっと真っ黒でした。
この黒く肥厚した皮膚だけはどのアトピーの病院にいっても「諦めましょう」といわれていました。

ところが、ホメオパシーでいろいろ治ったあとで、アトピーが再発し長期悪化した後、首のアトピーの黒い跡すらすっかりきれいになくなりました。

それどころか、少々メイクをおとさずに寝ても、肌に悪い化粧品をつかっても、ジャンクな食べ物を食べても、甘いものを大量にとっても、ストレスがたまっても、アトピーが出ないという「かなりな完治」を体験したのです。

30代後半に高校の同窓会がありましたが、11人くらいの人に「あんた誰?」と言われました。
そのときには、私は見た目、雰囲気から全く別人となってしまっていました。

それよりもっと後の同窓会でも、年齢的にはすでに40代にもかかわらず、目の下のアトピー線の皺もなくなり、肌もハリを増し、若返ったとみんなからいわれました。

その頃にはホメオパシーでどんどん内面をケアしていましたので、まだ勤めていた化粧品会社でももっと自信をもつこともできていました。

会長にかけあって自分の企画の商品をもちこみ、グンゼと交渉し、共同開発の新商品を提案しました。

役員、同じ企画部の仲間すら反対する中、自分がやりたい商品を商品化するべく会長にかけあいなんとか商品化した商品が大ヒットしたのです。

1億2000万以上の売り上げをあげ、雑誌にも掲載され、その後は商品を企画するたび当たり前のように売れ、ヒットメーカーとなりました。


いじめ、仲間はずれ、誹謗中傷、人がドサドサやめるパワハラ環境で、なんとか頑張って仲間をつのり、話を聞いてもらえなかった会長を説得し、やる気のなかった仲間を説得し、なんとか夢を叶えました。

今までこれらの話しをしてこなかったため、私はホメオパシーの人(昔からやっている)とおもわれがちですが、一般の会社に入社した後の苦労は嫌というほど味わってきました。
その分仕事や職場についてアドバイスできることはあるとおもいます。
また、現在は嫌な会社に耐えてまでその会社に居続けるといったことをしなくても昔よりは転職もしやすいし、自分にあったキャリアも見つけやすいとおもいます。

師匠から言われた無茶なミッション「魂の仕事をしろ!」

化粧品会社に勤めながらホメオパシー学校を卒業したあとは細々とホメオパシーで副業していました。

ホメオパシーは一番やりたい仕事ではありましたが、世間のホメオパシーブームが去り、周りの人達もホメオパシーをやめてゆきました。

頑張っていた先輩も辞め、同級生は講座だけにしてセッションは辞め、やっぱり本業がいいと辞め、ホメオパシーの本を書いていた人も辞め、医師でい活躍していた人もやめ、クリニックと学校経営していた人も辞めていました。

みんながホメオパシーをやめていった理由は、うまく治せないから、講座ならできるから、儲からないからなどなど・・・。

ホメオパシーの仕事が続いている人は、学校の経営をしているか、夫がいる人くらい、正直なところホメオパシーだけで1人で生活している人は当時周りに一人もいませんでした。

私は心の底ではもっと本格的にホメオパシーをやりたい!という夢はあっても生活できる自信はなく、挑戦する勇気はありませんでした。

当時の私は、勤めている化粧品会社よりはましな会社に転職し、結婚でもすればもう人生いいんじゃないかと本気で思っていたのです。


しかし、44歳くらいのときに、ホメオパシーの師匠が奇妙かつ驚きのミッションをいいだします。

「お前はそろそろなんのためにこの世に生まれてきたのかを探すことをしろ」
「そのために転職先などは決めずに、何も持たずに会社を退職して自分を見つめ直して今後の方針を考えろ」といわれたのです。


45歳にして転職先も決めずに退職しろ?すでに転職が難しい年齢になっていましたし、未婚でしたので「いやいや無理ですよ」といって、私は不満がある当時の化粧品会社にしがみつき続けます。

ところが、身体というものは正直で「やめろ」「辞めたくない不安だもん」このやり取りを繰り返し、騙し騙し、会社でそこそこやりがいのある仕事をしているうちに、私はだんだん体調を崩し、ついに癌になるかもしれない前兆が子宮に出ました。

その日のうちに私は退職届を書き、文字とおり何も持たずに12年間勤めた化粧品会社を惜しまれながら退職しました。

その後は断食をしたり、恋をしたり、手作り品をつくったり、webデザインやプログラムを勉強し直し、ブログを立ち上げ、ホメオパシーを発信しました。

やがて、男友達も女友達もたくさんできて、恋もたくさんしてきました。

47歳で会社を設立し、ついにホメオパシーの仕事だけで独立を果たしたのです。

その後も地道に実績を積みあげ、55歳で法人化も果たし、現在ホメオパシー以外に、人間関係のコミュニティー運営の共同事業に携わり、日々新しい挑戦を続けています。

この話を聞くと「ホメオパシーを受けてさえいれば病気にならないのでは?」と思う人もいるかもですが、ちがいます。

病気はあなたへの「今の人生を変えなさい」というサインなのです。

例えば、働き過ぎている人には「ライフスタイルを変えなさい」と病気になって報せにきます。
例えば、ネガティブな夫婦関係にしがみついている人には「その夫婦関係を変えなさい」と病気になって報せにきます。

そして・・・意外かもしれませんが、本来ある才能を発揮せずに放置していても病気になって報せにくるのです。

私は当時ホメオパシーも受けていましたが、一定以上治らない時期があり、その理由も先生は説明してくれていました。
時々「ホメオパシー受けたら自己実現かってにできるんでしょ?」と思っている人がいますが、それは完全に間違いです。
私も人生を変えるためには自分自身の決断と行動が最後の決め手でした。

真の治癒を目指すと自己実現にたどり着く

病院では病気が見つかりさえしなければ、自信がなくても、失恋を繰り返していても、やりがいのない仕事に就いていても「病気」ではありません。

ホメオパシーならば、「自信がない」も「失恋の心の傷」も症状だから治しますが、「やりがいのない仕事に就いている」としても、本人がそのことで困っていないならは改善することにはならないでしょう。

私が行うライフジャンプホメオパシーでは違います。

理由は、私が卒業したIACHホメオパシー校では「真の健康はその人が自分の可能性を完全に開花している状態」と定義するからです。

「やりがいのない仕事に就いている状態」は、自分の人生の時間のほとんどをつまらない時間しているわけで、本来のその人の可能性に挑戦していない諦めた状態で、真の健康ではないと判断します。

多くの場合、やりがいのない仕事に就いていても、ネットをみたり、彼氏と遊んだり、友達と飲み会に行って、買い物をしていれば、わりと幸福だと自分にいいきかせ、毎日がワクワクしていなくても、心の底からやりたいことをしていなくても、「子供の成長が私のいきがいだから」「結婚しているから」といって自分は幸せなんだといいきかせるのではないでしょうか?

私のこの一連の変化についてホメオパシーの師匠は「これは高度なホメオパシー」と言っていました。

ホメオパシーは一般的には病気や心の不調を治すために使われ、クライアントが相談していた症状が治ればそれで終わりです。

しかし本来、身体の不調の陰にも、心の不調の陰にも、本来のその人らしい人間関係や人生を選択してこなかった、という根本的な症状が隠されている事も多いのです。
反対にその問題に取り組むことで、本来の自分らしい生き方に気づくこともしばしばなのです。

しかし、それはその問題に「ホメオパスがやってくれるだろう」ではなく、自ら主体的に取り組んだ人だけが見ることができる高みなのです。

私の想い〜ライフジャンプホメオパシー

ここまで、とても長い話を読んでいただいてどうもありがとう。

ホメオパシーとは、や初めての方へ に記載していることがもっと身近に伝わったかもしれません。

読んでいただいた通り、私自身が虐待、病気、手術、恋愛、人間関係、仕事、自己実現で悩み苦しみ七転八倒してきました。

あなたがもし、今なにかお悩みなら、私が経験してきたことでなにか力になれるかもしれません。

ホメオパシーはどちらかというと、ヒーリングが好きだったり、研究勉強好きな方がやりがちな療法で少し変わったお仕事をしている方が多いかもしれません。

私は少し変わり種で、ごく普通にお勤めをしてきて、恋も仕事も人生の中で、良いことも悪いこともかなり豊富に経験してきたホメオパスといえるでしょう。

私のホメオパシーでは、ホメオパシーで対応できない症状についてはきちんとお伝えします。

そのうえで、あなたの身体のお悩みを解決するお手伝いをして。
あなたの心の問題トラウマや虐待の心の傷、失恋、人間関係、家族、仕事の悩みを改善するお手伝いをして。
ケアを継続して、できるだけ改善した症状が簡単には戻リ悪いところに導くことを目指し。

さらに真剣にご自分の問題に取り組んで、自身を変える気概がある方には、今までの人生でつくりあげたブロックをはずし、自己実現を一緒に目指したいとおもっています。

もしこれらのお話になにか感じるところがありましたら、無料相談付きメルマガプレセッション(オンライン相談)で今度はあなたの人生の話を私に聞かせてください。

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